茶の脇道 その一
ずうっとそばにあったのに全然気が付かず、去年の年末、突然私の人生にはいってきた「茶道」という遊びとはとてもいえない、学びいやむしろ修行・・・。樹木希林さんがお茶の先生役を演じ、最後の作品になった「日々是好日」は映画化される前から好きで読んでいたエッセイですが、まさか自分がそこにはいっていくとは思わず。そんな顛末を備忘録的にエッセイで綴っていきたいと思います。
茶道やってみる!?
茶道というと、和菓子を頂き、脚がしびれながらお抹茶の正しい入れ方を学ぶお稽古事というイメージが強いのではないでしょうか?
私もその程度にしか思っていなかった一人・・・。
しかし、茶人の正月ともいわれる口切の時期を終えた頃、友人からお茶事のお誘いが届いた。
彼女は長野の古い古民家を購入し、茶室をつくり、そこの古い地名である花園をとり「花園居」と名付けた。
青山と週末長野のデュアルライフを送っている彼女から、和紙の巻物しかも毛筆でしたためた手紙が届き、その本気度におののいたのは、気軽な気持ちで「いきたーい♪」と答えたお仲間たち全員だったと思う。
まったく茶道の心得のない私。(と、他3人)
「始めてのお茶事というテーマだから大丈夫だよ~」という友人の言葉に甘えて、まっさらな素人で行くというのもありだ。
が、それは大人としてどうなのかという凝り性の蟲がむくむくと体内から起き上がる。
そういえば仲良しのママ友は昔から茶道をたしなみ、教えたりしていたかも!?
さっそく連絡し、とりあえずお客としてのお点前とお茶事のマナーと着付けを習いに行った。
あぁ、この人の所作の美しさ、ことあるごとに御懐紙をくださること、手土産に上等な茶菓子を毎回もってきてくださること、冬になるとうちの庭の地味~な椿に異様に反応し、実は茶花らしく胡蝶侘助という名前だということを教えてくれたりするのは、彼女が茶人だったからなのだ。彼女は山口に住むおばあさまの代から裏千家流の茶道をたしなみ、今も三鷹の社中に属し、教授までとって、毎月ゼミというお道具や茶道に関する様々な研究会に参加もしている。
彼女の趣味というにはどこかもっと深いところにいるような、習い事を超えた茶道がにわかに私に近付いてきた!!
茶道のさ
早速、彼女のうちに着物持参で押しかけ、まずは着物の格のチェック。
とはいえ、これは実家から掘り出してきた、母がしつけ糸もとらず着物箪笥におそらく30年近く保管してきたお茶会用色無地。今更ながら思い出したが、母は昔、ちょうどいまの私の年ごろの頃、同じく裏千家の茶道にはまっていた時期があったらしい。
その時にはじめて知ったのだが、電気風炉やら水差しやらなんやら一式がうちにあった。
そして、あわてて買い求めた袱紗やら古袱紗、数寄屋袋なども一式・・・が、それは茶会レベルのもので、茶事は別次元の茶道のイベントであることは、彼女に借りたふるーい絶版本の茶道漫画で知ることになる。
まず、茶道にはお稽古、茶会、大寄せの茶会、茶事などの種類があり、さらに茶事には一客一亭の茶事、夜咄の茶事、夕去りの茶事、飯後の茶事、朝茶事などの種類があり、その総集編として正午の茶事がある。そして正午の茶事も、冬に行う「炉」、とそれ以外の季節に行う「風炉」、そしてテーブルとイスで行う「立礼(りゅうれい)」の茶事がある。
そもそも茶道は、口伝をよしとするところがあり、写真付きの解説本やテキストがでていて、亭主側も客側もすべての手順が公開されているのは、革新的な裏千家ならではなんだそうだ。
とりあえず、裏千家で茶道のさを学び、お客としてまぁまぁ恥ずかしくないところまではいこうというのが、今回の茶事前のお稽古のコンセプトだ。
最初のお稽古
とりあえず着なれない着物を着せてもらい、「ではまず盆手前からはじめましょう」と彼女のお宅にしつらえたにわか茶室でスタート。
正座なんてできるかな・・・いや全然できなかった。あっという間にしびれる脚。
一服いただく前にもうギブアップ。「足は崩してもよいですよ~」といわれるのだが、着物きてお茶を頂きながら足を崩すなんてありえない・・・と私のつたない美意識が言う。
「あ、そうそうこれもお貸ししましょうか?」と正座椅子という神のようなグッズがでてきた。
「うわ!楽!」
でも最初の日はそれでもしびれた。これは減量が必須かも!?
意外だったのは着物を着ると、腰が伸びてカラダの中心線と重心がしっかりと落ち、正座しやすい。
やはり茶道と着物は切ってはきれないものなのだ。
陰陽師を感じる茶道
まず、茶道にはなくてはならないのが「茶扇子」という小ぶりな扇子。
なにをするにも、自分より前に後ろにその小さな扇子が存在感をもつ。(流派によるのだということをお茶事で知るのだが。)
この小さな扇子が、自他の領域に線引きをすることで、相手を敬うということを表現するらしい。
茶室にはいるときから常に前に置きながら、にじり入り、掛け軸を拝見し、炉を拝見する。
常に自分の前に茶扇子。自分の位置についたら、やっと後ろに置く。でもそこにいる。
「お茶のお点前には2種類あるんですよ~」とお点前のお稽古が始まる。まずは頂く練習から。
お点前は濃茶手前と薄茶点前がある。よく「こいちゃ」とか「おうす」とか呼ばれている。
濃茶手前は、濃い目につくった一杯のお点前を客全員で回し飲みをするもの。
濃茶手前の前には、練りきりや饅頭など季節で異なる茶菓子が出される。
そこにも様々なルールがあって、菓子鉢や縁高というお菓子用のお重の扱い、一番上座のご正客から次客への回し方、詰め(最後の客)のしまい方、懐紙を取りだし和菓子をとりわけることなどなどなど・・・。
濃い抹茶の香りが鼻からぬけていく時、私はなぜかいつも磯の香がするのだが、それは私だけらしい。
薄茶点前はお点前の前に、いわゆる干菓子的なもの、落雁などが干菓子器にもられ、正客からお詰にまでまわる。
その際、濃茶と同様、懐から懐紙をとりだし、そこに置き、次客に送っていく。
干菓子はかならず少し多めにのせてある。
これは「どうぞ美味しかったらおかわりを」という亭主の気遣いだが、そこは一人一種類一つずついただくのがルールだ。
いわゆる右に二回回して頂くという茶道のプロトタイプなお点前のいただき方は、薄茶点前がベースになっている。
ここで一番びっくりするのが、今まで気にもしていなかった畳の縁がもつ意味。
「畳の縁は踏んではいけない」は茶道の所作の基本であるのだが、それ以上にこの縁は、亭主と客をわける結界という意味をもつ。
縁より亭主側、縁より自分側。明確にわけることで、「礼」の心を表現しているのだ。
なので、いつも縁の外に菓子や茶は置かれ、内側に取り込むと次客側に置き、に必ず「お先に」と声をかけ、正面に戻し、おし戴いてお茶を頂く。菓子器は縁外で正客から詰めまで回される。
そういった決まった型の中に、礼節のすべてがはいっている。
昔の茶人は、扇子や畳の縁、竹や屏風の結界などを使い、自他を分け、相手にわかりやすい線を引き、相手への敬う気持ちを型として表現してきたのだ。
魑魅魍魎とした存在が、現代より普通にいたであろう時代の、お茶をいただくという儀式は、もしかしたら私たちが思っているより、エネルギー的というか、見えないものを断つとかそういう意味をそれぞれの所作がもっていたのではないかと思うほど・・・。
茶道もまた、バレエや能や狂言、歌舞伎のように、万人がわかる型を何百年も繰り返す中で確立されたそれを守ることは、その場の空気、茶、菓子、花、香り、書、器や道具などのすべてに神経を研ぎ澄ませ、最大限に楽しむためのものなのかもしれない。
しかも季節ごとに形式が変わり、一月として同じものがない・・・。
これはかなり大人な遊びだ・・・。
と、とてつもなく深いのか高いのかわからない海溝か山に挑むような気分になった。
とはいってもまだまだ登山口にも谷の入り口にもいけてないんだが。
(つづく)